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英国人による英語の発音

Thursday 9 January 2014

英語は外国語ですし発音が難しいわけですが、そもそもフランス語やらイタリア語やらに比べるといろんな外国語が混ざってできてるんでしょうかね、一貫性がないですよね(たとえばinitialを「イニティアル」じゃなくて「イニシャル」と読むとか)。
しかも、世代によって英語は変化していっているということで、 British Libraryというところが調査しているそうです。 Continue reading

ログ印度、修正された!

Monday 26 October 2009

昨年書いたんですが、ソフトバンク携帯の管理をする「My Softbank」というページの表示「Logined」。ふと見ると、これが修正されていました。

ログ印度?

以前の表示

fig_icon_logined_off

現在の表示

まあ「このブログで指摘したから」ではないと思いますが、「関係ないだろう」とも言えないのが、昨今のバイラル・マーケティングだとか、そーゆーのです。
実は、このブログも、意外と「ログ印度」というキーワードで検索してくる訪問者がそこそこいたりします。

それはともかくとして、ソフトバンク携帯の支払いカードを変更しようと思ったんですが、「My Softbank」内にはそれがない。結局、157番へ電話をかけて手続きの用紙を送ってもらうのでした。
こうした手続きを郵送で行なわなければならないのは、不便と言えば不便ですが、そういう方針ならそれで構いません。仕方ないことだと思います。
しかし、157へ電話しろって、せめてMy Softbankの「変更手続き」のところに書いておいてもいいんじゃないでしょうかねー。
ぼくは結局、ソフトバンクのサイト内ではなんだかわからず、グーグルで検索してしまいました。(^^;
え、それはお前がバカなだけだって? いや、それはバカでもいいんですが、そんなぼくでもすぐに見つけられるように、ちょこっとね、書いておいてくれればいいと思うんですけどねー。

生ライブ

Wednesday 19 August 2009

昨日に引き続き、奇妙な言葉。

最近(?)「生ライブ」っていうのがあるんですよ、テレビで。
まあ、だいたい「お笑いの人が漫才とかコントとかをスタジオで演じるのを生放送すること」だと思うんですが、「生」と「ライブ」って同じ意味じゃないんですかね?
「頭痛が痛い」的な、そういうことにはならないんでしょうか??
多分、「生パフォーマンス」じゃまどろっこしいとかいうことがあるのかもしれませんが…。
お笑い番組のディレクターとかにあんまり多くを求めてもいけないのですかね?

逆に省きすぎなのが、NHKでさえも使っている「生中継」の略語としての「中継」という表示。
本来、略すなら「生」にすべきですよね。つまり、アメリカのニュース番組でいうところの「LIVE」という言葉。「中継」に「生」の意味合いは本来はないと思うんですが、きっと中の人たちは、ずーっとやってるうちにそういう感覚が鈍ってきちゃうんでしょうね。まあ、先輩が言っていることに反論はできない、みたいな体質もあるんだろうけど…。って、報道機関にそんな体質があっていいのかっ!
だってですよ、仮に「生ビール」を略して「ビール」って言ってたら変ですよね。「生」って略すのは場合によっていいと思うけど。
そもそも、「生中継」程度の短い言葉をなんだって略す必要があるんでしょうか。

空の便

Tuesday 18 August 2009

夏とか冬とか、ゴールデンウィークとかになると聞く言葉が、「空の便」です。

これは多分、普通の言葉でいうと「飛行機」のことだと思うんですが、なぜかニュースとかで混雑状況を伝えるときに「空の便」って言うんですよね。
一般に、人は「空の便」という言葉を使っているのか? ぼくの周りにはいないんですが、必ずしもぼくの周りの人が一般人なのかどうか自信が持てない…。(^^;

「今度、出張で大阪に行くんだ」
「新幹線で行くの? それとも空の便?」
なんて、会話をするものなんでしょうか。
「新幹線で行くの? それとも飛行機?」って言いそうな気が、メチャクチャします。

新幹線、在来線、高速道路、空の便。
まあ、「空の便」も詩的な表現と言えないこともないですけれどもね。

TOEIC受験

Wednesday 24 June 2009

5月31日にTOEICを受けてみました。結果は、900点でした。

まだ認定証は送られてきていないのですが、インターネットのサイトで得点を確認することができます。リスニングが420点、リーディングが480点という内訳でした。

ぼくは実はこれまで英検も受けたことがなく、これが初めての英語の試験でした。ですから、今回は模試のつもりで、このあと2、3回受けて800点台後半にいけたらいいかな、と思っていたのですが、最初から期待以上の高得点がとれてほっとしました。

ぼくには留学経験などはなく、仕事で数週間アメリカに滞在したことがある程度です。英会話学校などにも行ったことはありません。だから、基本的に英語は独学です。

ネットで見ていると、他のあらゆる試験同様、TOEICにも何かしら「必勝法」のようなものが存在していると思っている人も多いようですが、ぼくはそんなものはないと思います。というか、必勝法のようなものを習得する暇があったら、地道に問題を解いた方が楽に結果に結びつけることができるでしょう。

一回受験しただけのぼくがあまり偉そうなことをいうのもなんですが、TOEICの場合、リスニング、リーディングともにスピードが大事なようです。あまり細かい文法的な知識や、豊富な語彙が求められているわけではないと思います。「一回聞いただけで話の内容を聞き取れること」「ざっと読んだだけで内容を理解できること」、この2つが必要です。

ということは、結局は慣れること、日頃からたくさん英語に接することが、TOEICで高い得点を取るための勉強法ということでしょう。

ぼくの場合は、リスニングに役立つこととしては、毎日PodcastでCNNBBCを聞いています。TOEICでは基本的にイギリス英語は出ない(?)みたいですが、多様な発音を聞き取れるようにすることは役立つと思います。

リーディングのためには、単純に英語のニュースサイトを適当に読んでいます。これも、大量の文章を長期にわたって読む、というのが一番確実な勉強法だと思います。

TOEICでは、文学的な表現は一切出題されないので、小説などを読むのはあまり効率はよくないでしょう。Appleの製品ページとか、F1のオフィシャルサイトとか、そういうのがいいんじゃないかと思います。

とはいえ、試験というのはどれも「出題の形式」というのがありますから、実際の問題をやってみることは絶対に必要です。一番いいのは、公式問題集をやることでしょう。といいつつ、ぼくはやってないのですが…。(^^;

ぼくがやったのは「TOEICテスト新完全模試」という本で、これは一回(つまり200問)やってみました。きちんとした採点はしなかったのですが、7割から8割はできたかな、という感じでした。

実はこの本は、古い形式に沿ったものだそうで、2005年あたりからTOEICは出題形式が一部変更になったそうです。が、ぼくの感想としては、古い形式も新しい形式も、必要な英語力という点では大きな違いはないと思いました。ですから、新しい問題集が高いと思う方は、こういう古い問題集を古本でゲットするのもいいかもしれません。

もうひとつやったのは、「新TOEICテストスーパートレーニング」という本です。細かい知識・解説も出ていますが、ぼくの場合はそういうのは飛ばして、ただ問題だけ解きました(といいつつ半分くらいしかやってないのですが (^^; )。イディオムや前置詞などの力を強化できると思います。なかなかいい本です

ログイン

Thursday 11 December 2008

ソフトバンクの利用料金などは、一部「My SoftBank」というウェブサイトで管理することができます。
これにログインすると、ブラウザー左上に表示されるのが、「LOGINED」という表示。

ログ印度?

ログ印度?

これ、どう読めばいいのでしょう?
恐らくlogin(ログイン)という動詞の過去分詞、ということで-edが付いているのではないかと思いますが、「login」というのは、もともとは「log in」という2つの単語。過去形や過去分詞は「logged in」になるのが自然な気がしますが、どうなのでしょうか。

と思ったら、ログインは動詞ではない!というウェブサイトがありました。こういうサイトがあるということは、逆にネイティブの人でもloginを動詞だと思っている人がたくさんいるということでしょう。ソフトバンクが間違えるのも、仕方ないか。

しかし、上記のNot a Verbドットコム。そんなサイトを立ち上げちゃうなんて、それもまた激しいですね。

ちなみに、WordPressでログアウトすると、表示は以下のように「logged out」となります。

ログアウティドじゃなくて、ホッとします。

ログアウティドじゃなくて、ホッとします。

動詞の話ではないのですが、「プラグイン」、これなんかも、もはやplug-inではなくてpluginという言葉として定着している感じがありますね。WordPressでも機能追加のための仕組みを複数形では「plugins」と表記しています。さすがに動詞化して「plugined」というのはあまり聞かないと思いますが。

また、調べてみたら、Mac OS X 10.4に付属の英英辞書には、なんと「username」という見出し語があります。

username |ˈyoōzərˌnām|
noun Computing
an identification used by a person with access to a computer network.

userとnameの2語だという感覚は、もう古いようです。

日本語入力

Sunday 24 August 2008

iPhoneを買ってから2週間、だいぶいろんなことをやってみたので、今日から普通のQWERTYキーボードをオフにして「テンキー」を試してみています。
カナから漢字に変換する効率は同じだろうと思うのですが、カナを入力するのは、このテンキーの方がいいかもしれません。
ただ英文などアルファベットを入力するのは、かなり大変かも。QWERTYの方が結構普通に使える感じな上、スペースを二回タップするとピリオドとスペースが入力できたり、文頭だけ自動的に大文字にしてくれたり、気がきいている。
それに比べると、日本語入力はまだまだやることがたくさんありそうですね。基本的に先読み変換が遅すぎるときもあるし…
日本語はほんとに何かと大変です。

あれー、WordPressのアプリケーション、ルーペが使えない…
一時的なものかな?

長音記号、マイクロソフトの意見。

Saturday 26 July 2008

このワードプレッサ、始めたときに勢いで変な場所に書いてあるんですが、私は以前からカタカナ語の語尾の長音記号を付ける派でした。

今度マイクロソフトがそういうことになるっていうことで、ありがたいことです。

CNET

何しろ、こういう問題は、人を説得しようとすると、ものすごく大変なのです。「browser」を「ブラウザ」と書くべきだ、と思い込んでいる人は、どんだけ説明してもそこから離れられません。その人が変に技術畑の人だったりすると、かなり奇妙な理屈を持ち出してきたりする場合もあります。
結局、マイクロソフトみたいにでっかいところにやってもらうのが一番です。(^_^)

花屋の窓

Friday 25 January 2008

こちらは、やぶちゃん曰く、『Gaity座の「サロメ」』と「ペアで読んで頂きたい」という作品です。
途中引用部分がありますが、そこは左右に2em(2文字分)のマージンをとっています。「やぶちゃんテクスト」では改行やスペースを使って段を下げていますが、本来的にはマージンの方がよいと思います。
ちなみに、現在のところ、画面表示はサンセリフ(ヒラギノ角ゴシック、またはMS Pゴシック)、印刷はセリフ(ヒラギノ明朝またはMS明朝)としています(多分そうなってると思う)。いずれにしても、エムダッシュの扱いもそうですが、MSフォントはあまりよくありません。

花屋の窓

片山廣子

 暮れかかる山手の坂にあかり射して花屋の窓の黄菊しらぎく

 この歌は、昭和十一年ごろ横濱の山手の坂で詠んだのであるが、そのときの花屋の花の色や路にさした電氣の白い光も、すこしも顯れてゐない。何度か詠みなほしてみても駄目なので、そのまま投げてしまつた。しかし歌はともかく、秋のたそがれの坂の景色を私はその後も時々おもひ出してゐた。

 まだ靜かな世の中で、大森山王にゐた娘たち夫婦が私を横濱に遊びに誘つてくれた。遊びにといつても週間の日の午後四時ごろ出かけたのだから、ちよつとした夕食をするのが目的で、その前に彼の大好きな場所であつたフランス領事館の前のあき地に行つて散歩した。その時分のタクシイは一圓五十錢ぐらゐの料金で、大森八景坂からそのフランス領事館の坂の上まで私たちをはこんでくれた。

 夕日がまだ暖かい丘の草はらを歩き廻つて崖ぎはに出ると、海はもう沈んだ光になつて、わづかばかりの鷗が高くひくく飛んでゐた。

 その草はらで暫く休んでから、領事館の横を通つて急な坂道を下り始めた。片側は崖で、片側に一二軒の小家があつたが戸ざして火影もなく、みじか日がすつかり暮れて坂は暗くなつてゐた。坂を下りきる邊にあかりが白く路にさしてゐる家があつた。花屋で、中は一ぱいの西洋花が滿ちみちて、大きなガラスの窓には白と黄の大輪の菊が咲きほこつてゐるのだつた。鉢植のが黄菊で、きり花が白菊だつたか、その反對であつたか今思ひ出せないけれど、その窓がまぶしいほど明るい世界を暗い路に見せてゐた。山手の外人の家に花を入れる店らしく、その邊にほかの店は一つもないやうだつた。店内にも路にもそのときわれわれのほかに一人の人間も見えず靜かな夜みちを、そこから左にそれて南京町の方へ歩いて、聘珍(へいちん)で夕食をすました。

 その後も横濱へは何度か買物や遊びに行つたけれど、この花屋の道にはそれきり出たことがなく、ただ家に歸つて來てから、あの花屋の店は今日も花で一ぱいかしらなぞと考へたりした。焦土となつた横濱がぐんぐん復興して來たと聞いて、私はまた昔のやうに花屋の窓の電氣にうき出す菊の花を思ひゑがいた。

 先日、「うめ うま うぐひす」といふ芥川龍之介隨筆集を讀んでゐた時、ゲエテ一座のサロメを見物に行くところで、夕がた何處かの坂の中途で作者が、闇の中に明るい花屋のガラス窓を見るくだりがあつた。

「僕等四人の一高の生徒は日暮れがたの汽車に乘り、七時何分かに横濱へ着いた。それから何町をどう歩いたかはやはり判然と覺えてゐない。唯何處かの坂へかかると、屋並みも見えない闇の中に明るい硝子窓がたつた一つあり、その又窓の中に菊の花が澤山咲いてゐたのを覺えてゐる。それは或は西洋人相手の花屋か何かの店だつたであらう。が、ちよつと覗きこんだ所では誰も窓の中にゐる樣子は見えない。しかも菊の花の群がつた上には煙草の煙の輸になつたのが一つ、ちやんと空中に漂つてゐる。僕はこの窓の前を通る時に妙に嬉しい心もちがした。」

 これは、山手の坂のあの同じ花屋であることは確かである。妙に嬉しい心もちがしたと作者がいふところで私も妙にうれしくなつて、菊の花の群がつた上に漂つてゐる煙草の煙の輪を、私も見たやうな錯覺さへもち始めた。「夢のふるさと」といふやうな言葉でいふのはまはりくどいが、靜かなおちつきの世界を芥川さんも私もおのおの違つた時間に覗いて見たのであつたらう。

Gaity座の「サロメ」

Thursday 24 January 2008

「やぶちゃんの電子テクスト」(すごい量の文献がありますよ)からコピー&ペーストしたもの。「正字正仮名」ということで、コピー元もUTF-8なんですが、WordPressできちんと処理されるかどうか、試してみました。よさげな感じですが、細かいところ、どうでしょう?
個人的には、エムダッシュの文字コードが違っているように思えますが、とりあえず、あえてそのままにしてあります。

Gaity座の「サロメ」

――「僕等」の一人久米正雄に――   芥川龍之介

 ……切符は横濱の原さんに買つて貰つたやうに記憶してゐる。少くとも特に切符を買ひに横濱へ行つたと言ふ記憶はない。しかし僕等は當夜よりも確か一日か二日前に二等の切符を手に入れてゐた。切符は何でも二圓だか二圓五十錢だかだつたと覺えてゐる。

 僕等四人の一高の生徒は日暮れがたの汽車に乘り、七時何分かに横濱へ着いた。それから何町をどう歩いたかはやはり判然と覺えてゐない。唯何處かの坂へかかると、屋並みも見えない闇の中に明るい硝子窓がたつた一つあり、その又窓の中に菊の花が澤山吹いてゐたのを覺えてゐる。それは或は西洋人相手の花屋か何かの店だつたであらう。が、ちよつと覗きこんだ所では誰も窓の中にゐる樣子は見えない。しかも菊の花の群がつた上には煙草の煙の輪になつたのが一つ、ちやんと室中に漂つてゐる。僕はこの窓の前を通る時に妙に嬉しい心もちがした。勿論僕等はかう言ふことにもThe Land of Heart’s Desireの税關の旗を感ずるほど、健氣な羅曼(ロマン)主義者の一群だつたのである。

 開場前のゲイティイ座の前には西洋人が七八人、靜かに話したり歩いたりしてゐる。僕等もその間にまじりながら、暗い劇場のまはりをまはつて見た。劇場は如何にもひつそりしてゐる。どうも僕の記憶によれば、漆食塗りか何かの劇場の壁には火かげのさした窓も見えなかつたらしい。從つて僕は目の前の壁にばたんと言ふ音の聞えるが早いか、印牛纏を着た男が一人、電燈のともつた扉口から往來へ姿を露はした時には少からず吃驚した。が、それよりも僕の目を――恐らくは僕等の目を惹いたのはその扉口に立ち上つた、年の若い西洋の女である。彼女は電燈を後ろにしてゐたから、顏かたちの美醜は明かではない。しかし兎に角青い着ものを着た、世にも姿の好い女である。僕は忽ちこの女に或悲劇の女主人公を感じた。彼女は勿論二三週間のうちに誰かを愛して、罪惡を犯して、その為に毒を嚥んで死んでしまふのである。けれども彼女の口から出たのは、僕は未だにありありと如何に僕の幻滅の甚しかつたかを覚えてゐる、羅曼的な彼女の口から出たのは唯喉もとに癇癪を抑へた、鸚鵡よりも拙劣な日本語だつた。

 「それから、お前、ギタアを借りる、忘れる、いけませんよ! ギタアですよ! ヴァイオリンと間違へる、借りる、いけませんよ!」

 この何處かへ借りにやつたギタアは、――僕はそれから二十分の後にもう一度烈しい幻滅を感じた。アラン・ウィルキィ一座の舞臺監督は「サロメ」と共に上演した「フロレンスの悲劇」の色男にこのギタアを持たせてゐたのである。…………

 僕等は「フロレンスの悲劇」の幕が下りてから、薄暗い二階の後ろのベンチに熱心に「サロメ」を待ち焦れてゐた。尤も前後左右の西洋人は神妙に坐つて待つてなどはゐない。大抵は廊下へ煙草をのみに出たり、バアヘ一杯やりに行つたりしてゐる。僕は「フロレンスの悲劇」を見ながら、絶えず僕の左に坐つた老異人の腋臭(わきが)に辟易してゐた。薔薇色に頭の禿げた彼は幸ひもう席には坐つてゐない。しかし香水の匂に交つた、何とも彼と言はれぬ腋臭の匂は未だに僕の鼻に殘つてゐる。僕はこの匂を駆逐する爲に何度も馬のやうに鼻を鳴らした。すると其處へ漂つて來たのはゴムの燃えるのに似た匂である。それも始は僕の嗅覺を刺戟するかしないかだつた。が、少時するうちにだんだん噎せかへるほどの匂になつた。のみならず二階から下を見ると、西洋人に埋まつたオオケストラ・ストオルもいつの間にかぼんやりと煙つてゐる。僕はやつとこの匂も何かこれから始まる「サロメ」に縁のあると言ふことを發見した。

 しかし如何なる縁があるか、はつきりと僕にもわかつたのは突然落ちて來た闇の中に正面の幕の破れた時である。四角に薄明るい舞臺の奥には一段高い臺を設け、後ろに黑幕を垂らした外に全然背景と言ふものを使つてゐない。唯舞臺の左の前に金紙を貼つた井戸が一つ、フツト・ライトにぴかぴか光つてゐる。それから一段高い左右にそれぞれ怪しげな香爐が一つ、まつ直に煙を立ち昇らせてゐる。あのゴムの燃えるのに似た、野蠻極まる惡臭はこの何よりも烽火に近い香爐の煙の産物だつた。それは勿論嗅覺的に東洋の幻想を與へようとした舞臺監督の仕業に違ひない。けれども僕はこの煙に咳を生じたばかりだつた。或は必然の聯想として、セルロイド工場の大火事を思ひ浮べたばかりだつた。のみならず、――

 のみならず僕は役者たちにも、――「若きシリア人」や小姓にも殘酷な何度目かの幻滅を感じた。「若きシリア人」は肉附きの好い裸の手足を露はしたまま、一段高い舞臺の奥に反り身になつて佇んでゐる。が、背は目分量にすると、やつと四尺七八寸しかない。この小男を猶太の王ヘロド・アンティバスの寵遇を受けた護衛兵の大尉と思へと言ふのは金鶴香水をナルドの油と思へと言ふのも同じことである。いや、思へと言ふのかも知れない。現に小姓に扮した女優は明かに近代の文明が産んだ、一脚時價六圓か七圓ぐらゐの椅子に腰をかけてゐる。が、衣裳道具の整はないことや役者に適材を缺いてゐることは必ずしも不平を言はないでも好い。若しサロメさへ美しければ、――サロメに扮する女優さへ「銀の鏡に影を映した白薔薇の花のやうに」美しければ、僕等は五分もたたないうちに「若きシリア人」の身の丈や小姓の椅子などは忘れてしまふであらう。若しサロメさへ美しければ、――僕はHow beautifulとか或は又How strangeとか兎角Howを離れない臺辭の斷片を捉へながら、妃ヘロディアスの娘、猶太の王女、美しいサロメの出て來るのにあらゆる希望を託してゐた。

 サロメは畢に舞臺の右からしつしづと黑幕の前へ進んで來た。「若きシリア人」の臺辭を借りれば正に「水仙の花のやうに、銀の花のやうに」進んで來たのである。僕は早速双眼鏡擧げ――これはオペラ・グラスの誤りではない。明治十二年か十三年かに伊豆七島を測量した僕の叔父讓りの双眼鏡である。僕はこの大きい双眼鏡を擧げ、はるかに舞臺の上のサロメを眺めた。サロメはジヨカナアンの首を斬らせた時に何歳になつてゐたか不明である。が、兎に角養老院より女學校にはひるのに近かつたであらう。よし又年をとつてゐたにもしろ、少くとも女子大學の生徒ぐらゐの若さだけはあつたと思はなければならぬ。けれどこのサロメは明かに粉黛を装つたお婆さんである。顏や頸の皺は勿論、頰のこけてゐることも一通りではない。殊に猶太の月明りに、大理石と白さを競ふべき腕は干し大根のやうに痩せ細つてゐる。ああ、サロメさへ美しければ!――僕は圓いレンズの中にはつきりと彼女を眺めた時にとうとう僕の羅曼主義も偉大なる羅馬帝國のやうに没落しなければならぬことを感じた。しかし――

 しかし火を吹いて滅せしめる風は同時に又火を吹いて熾ならしめる風である。俗惡を極めた現實は僕の羅曼主義に一撃を與へた。けれど僕の羅曼主義は反つてその一撃の爲に燃え上つた。と言ふのは外でもない、僕はこの「老いたる猶太の王女」に忽ちかう言ふ森先生の名文の一節を思ひ起したのである。――

 「……女王は身の丈甚だ高からず、面(おもて)の輪郭鋭くして、黑き目は稍々(やや)陷りたり。衣裳つきほいと惡(あし)し。無遠慮に評せば、擬人せる貧窶(ひんる)の妃嬪(ひひん)の装束したるとやいふべき。さるを怪しむべきは此女優の擧止(たちゐ)のさま都雅(みやびやか)にして、いたく他(た)の二人(にん)と殊なる事なり。われは心の中に、若し少(わか)き美しき娘に此行儀あらば奈何ならんとおもひぬ。既にして女王は進みて舞臺の縁(ふち)に點(とも)し連ねたる燈火(つくわ)の處に到りぬ。此時我心は我目を疑ひ、我胸は劇(はげ)しき動悸を感じたり。われは暫くの間、傍なる紳士に其名を問ふことを敢てせざりき。われ。此女優の名をば何とかいふ。紳士。アヌンチヤタといへり。……」

 僕は何度も双眼鏡を挙げて舞臺の上のサロメを眺めた。サロメを?――いや、サロメではない。あれは「即興詩人」のアヌンチヤタである。少くともアヌンチヤタの姉妹である。殘骸に脂粉を装つた酉班牙生まれのアヌンチヤタは氣の毒にも「燈燭の數少き、薄暗き」ヴェニスの小劇場に往年の戀人と邂逅した。が、ヴェニスの小劇場は東洋の日本の横濱の小劇場のあはれなるに若かない。あのサロメに扮した女優も肉の落ちた彼女の乳の下には何本かの古手紙を持つてゐるであらう。或はホテルの彼女の部屋にも何年か前にディドオに扮した彼女自身の油畫――でなければ繪端書ぐらゐは持つてゐるかも知れない。……

 「……アヌンチヤタは再び口を開きぬ。我は君と再會せり。再會していよ/\君が情ある人なることを知る。されど薔薇(さうび)は既に凋(すが)れ、白鵠(くぐひ)は復た歌はずなりぬ。おもふに君は聖母の恩澤に浴して、我に殊なる好き運命に逢ひ給ふなるべし。今はわれに唯々(ただ/\)一つの願(ねがひ)あり。アントニオよ、能くそを愜(かな)へ給はんかといふ。われ手に接吻して、いかなるおん望にもあれ、身にかなふ事ならばといふに、アヌンチヤタ、さらばこよひの事をば夢とおぼし棄て給ひて、いまより後(のち)いついづくにて相見んとも、おん身と我とは識らぬ人となりなんこと、是れわが唯々一つの願ぞ、さらば、アントニオ、これより善き世界に生れ出なば、また相見ることもあらんとて、我手を握りぬ。……」

 サロメは香爐の煙の中にI will kiss thy mouthとか何とか叫びながら、やつと金紙の井戸から出て來た豫言者ジヨカナアンに手を伸べてゐる。が、僕は小姓の椅子を忘れ、「若きシリア人」の身の丈を忘れ、唯僕の前に展開した羅曼主義の世界に見入つてゐた。其處には「サロメ」の戲曲家ワイルドもなければワイルドの戲曲「サロメ」もない。唯寂しいアヌンチヤタが一人、燈火もともさぬ屋根裏の小窓に今しがた悄然と歸つて行つたアントニオのことを考へてゐる。ヴェネティアの宮殿や寺院を照らした、薄ら寒い月光を眺めながら。……

 これは僕等の十四五年前に見た最初の「サロメ」の印象である。同時に又日本の舞臺に上つた最初の「サロメ」の印象である。僕は後に松井須磨子のやはり「サロメ」を演ずるのを見た。須磨子のサロメは美しい――よりも兎に角若かつたのに違ひない。が、僕のいつになつても忘れることの出來ないのはあの年をとつたサロメである。あの横濱へ流れて来た無名の英吉利の女優である。……

イタリア語化

Wednesday 16 January 2008

ダッシュボードが予期せず英語になってしまったので、この際、曜日や月の表示を一部イタリア語にしてみました。
変更したのは下のファイル。まだ完全ではありません。

wp-includes/locale.php

Fountains of Wayne

Friday 18 November 2005

このバンドはあまり有名ではありません。
日本語表記は「ファウンテイン…」となっているけれど、普通に発音したら「ファウンテン」ではないのか。
気になります。